田無スマイルCafeの定例会は、しばらく開催しないことになりました。サイト更新だけ続けていく予定です。

Facebookは  こちら

ヒト部

部長の小蚤(このみ)です

ヒト部の部長になりました小蚤です。

まちで出会った魅力的なひとに突撃インタビューします。

時には、ヘンなひとも登場します。

ぬくい果樹園 貫井正彦さん

保谷梨・ぶどうなど

貫井正彦さんがやっている「ぬくい果樹園」は、梨やぶどうの収穫時期には、新しくできた調布・保谷線沿いに直売所が設けられ、目立つ‘のれん’が掛けられる。訪ねたことはなくとも、道沿いに見た事がある人も多いのではないだろうか。

正彦さんのご両親の時代に、梨やぶどうの栽培を始め、正彦さんの代になってから、果樹を中心とするようになったという。梨とぶどうがメインだが、このほか、柿、キーウイ、ミカン、レモン、梅なども栽培している。1ha強の果樹園を、正彦さんご夫妻と息子さんの3人で営農している(注1)。直売所があるところにも果樹園があるが、新しい道路を作るために30aほど提供することになった。
(注1)繁忙期には、息子さんの奥さんも直売所を手伝う。

直売所での販売が主流で、近所の人が8割、2割が電話やFAXでの注文とのこと。購入した人が知人や親戚に送り、そこからまた電話等での販売につながることも多い。昨年からホームページを立ち上げ、ネットからも注文できるようになった。

 

農協を通した市場出荷ではなく、自分で値決めをして直販するので、手数料が掛らないというメリットはあるが、顔を見せての商売なので、お客を裏切れないという厳しさもある。たとえば、今年のように、天候不順でぶどうの生育期に十分な日照が得られず思うような味が出せなかった場合には、品物があっても、生食としての販売は中止したという(注2)。

(注2)今年は、ぶどうの半分近くを生食として販売せず、ワインにできる品種はワイナリーに販売し、残りは廃棄した。

西東京市で梨を生産している農家は8軒あり、一緒に「保谷梨」のブランド化を図っている。江戸時代からタイムスリップしてやってきて、疲れている人にアスパラギン酸の魔法をかけて元気にしてくれる梨の妖精「ほーやぼうや」というキャラクターも作った。

 ほーやぼうや

                    木成り完熟を待つ梨

保谷梨は、5月頃から良いものだけを残す「摘果」を繰り返し、玉の大きなものを厳選して育てている。また、木で完熟させてから販売するので、その分、市場出荷のものより新鮮で美味しい。しかし、直売所での販売が主流ということもあり、西東京市、特にもと田無市の人たちには、あまり知られていないのが残念だ。8軒の梨農家のうち、4軒は、後継者が就農しているし、残りは主人が50~60代とのことで心強い。是非ブランドを広めたいものだ。

どんな作物でもそうだが、土づくりが一番大切だ。化学肥料では、短期間の生産性は高まるものの、長い時間が経つと土が衰えることが分かってきたため、昔からの有機肥料を使った農法に替えてきた。長い年月をかけ、根がしっかりはり、気象状況に作柄を左右されない、土づくりをしてきた。

 

さらに、ぬくい果樹園では、昨年から、「盛土式根圏制御栽培法」(注3)を取り入れはじめた。この栽培法は、栃木県の農業試験場が開発したもので、根の延びる範囲を制限し、水や肥料を自動制御する。天候の影響を減らすことができ、単位面積当たりの収量が倍になる。また、露地栽培だと成木になるのに10年かかるところ、4年で成木になるという。ぬくい果樹園では、まだ一部でしか採用していないが、現在の成木の代替時期に合わせ、この方式に転換していく予定だ。

 

(注3)この方法は、東京では、ぬくい果樹園を含めまだ3軒しか導入していないが、今後全国的に広まると予想される。農業試験場では、現在、梨以外の作物でも実験中とのことだ。

 

やすだ農園 安田加奈子さん

やすだ農園4代目

 自宅入口にある直売所で
安田加奈子さんは、「やすだ農園」の4代目。約70aの畑をご両親と加奈子さん夫妻の4人で運営している。子どもの頃、祖父母や両親が畑をしている傍らで泥山を作ったり、木登りしたりして遊んだ。季節によって変化のある畑は、とても楽しい場所だった。大好きな畑で子育てをするのが夢となり、結婚を機に、ご主人ともども勤めを辞めて、農家を継ぐことにしたとのこと。

 

めずらしい品種、多様な作物

キャベツ、ブロッコリー、大根、ほうれん草、枝豆、トウモロコシ、トマトなど、季節の旬の野菜50品目ほどを露地栽培している。減農薬・減化学肥料・有機栽培を心掛けている。HPを見ると、実に美味しそうな多様な野菜が並んでいる。また、めずらしい品種も多い。

加奈子さんは、せっかく継いだのだから、自分が楽しいと思うことをやろうと思っているとのこと。2016年から、江戸東京伝統野菜の「内藤とうがらしプロジェクト」の公認栽培メンバーにもなった。

 私もサラダ蕪(もものすけ)や黄色のにんじんなどを手に入れて帰ったが、カラフルなので食卓が楽しくなる。味も濃くて美味しかった。

やすだ農園は、共同出荷グループの一員で、近隣のスーパーの地元野菜コーナーに直接契約し、納品している。SEIYU、ヤマテ、いなげや、トップス、オーケーなどだ。農業収入としては、これがメインとのこと。このほかに、三越伊勢丹銀座店の生鮮食品売り場、及び9階の「みのる食堂」、大手町のフレンチレストラン「ラ・カンパーニュ」にも出荷している(注1)。このほか、写真の庭先直売所や各地で開催されるマルシェにも参加している。

(注1)「みのる食堂」、「ラ・カンパーニュ」は、全農による「みのりみのるプロジェクト」による店。

 

農場女子プロジェクトに参加

加奈子さんは、農林水産省が進めている「農業女子プロジェクト」にも参加している。HPによると、「女性農業者が日々の生活や仕事、自然との関わりの中で培った知恵を様々な企業の技術・ノウハウ・アイデアなどと結びつけ、新たな商品やサービス、情報を創造し、社会に広く発信していくためのプロジェクトです。このプロジェクトを通して、農業内外の多様な企業・団体と連携し、農業で活躍する女性の姿を様々な切り口から情報発信することにより、社会全体での女性農業者の存在感を高め、併せて職業としての農業を選択する若手女性の増加を図ります」とのこと。

 

三越伊勢丹新宿店の地下催事場で「農業女子マルシェ」を実施するにあたって、バイヤーさんが畑を見学に来て、野菜を食べ、味がしっかりしていると、農業女子の中から選んでもらえた。この催事きっかけに、銀座店のバイヤーさんからもお声がかかり、常設販売へとつながった。

 

 

価格だけで比べられると悲しい

農業が大好きで4代目となった加奈子さんだが、日々悲しい思いもしている。消費者に値段で比べられてしまうことだ。タネも堆肥も良いものを使い、丁寧に育てており、実際食べてもらえれば味の良さが分かってもらえるのに、「高い」というだけで敬遠されてしまう。自分としては、今の路線で行きたいのだが、買い手が安さを求めるなら、そちらの路線にした方が良いのだろうかと悩んでしまうという。是非とも、味の分かるレストランなどへの販売が増えて欲しいものだ。

 

また、納得がいかないのは、安田家は、100年続いてきた農家で、昔は広い畑を所有していたのに、相続が起きる度に畑を売らざるを得ないという現実だ。畑は、生産緑地地区に指定されているし、後継者が居ても、畑以外の自宅等には相続税が宅地並みにかかるので、どうしても山林や畑を売らざるを得ないことだ。このため、どんどん耕作面積が減ってしまう。

 

将来は食育や収穫体験などもやりたい

 

加奈子さんは、現在7ケ月のお子さんを子育て中。日々の農作業等と合わせ、てんてこ舞いだという。幼稚園教諭・保育士・子ども環境管理士資格を持っているので、将来的には、食育や収穫体験などの活動もやれたら嬉しいと思っている。(2017.12.08)

 

ファーム柳沢 松本 渉さん

柳沢駅北口から5分

ファーム柳沢は、ゆっくり完熟させた中玉トマト「東京トマト」を作っている農家だ。

 

柳沢駅北口を降りると、都営アパート群が林立している。そこを5分ほど青梅街道に向かって歩いた住宅街の中に松本渉さんのファーム柳沢がある。入口に、西東京JAのめぐみちゃんの旗と「東京トマト」の旗が立っている。

 

東日本大震災が転機に

松本さんは、もともと化学工業製品・業務用食品を扱うメーカーの食品開発部門で働いていた。

この会社の工場が福島にあり、遊休地が20ヘクタールもあるため、ここでイチゴやトマトを栽培してはどうかと植物工場の研究を始めていた。

ところが、東日本大震災が起こり、福島で栽培するのは見合わせることになった。

松本さんの奥様のご実家が柳沢で農家をやっていたこともあり、それではと、57歳で会社を辞め、自宅でトマト栽培をやってみようと思い立った。早速、ハウスを建て、2014年から実際の栽培を始めた。今年で4年目になる。

 

収穫しやすいよう花芽の高さを調節

ハウスに入るには、靴を履きかえ、二重になった網のカーテンを開けて入る。長さ30メートルのポットが6列並び、中玉という直径3センチくらいのトマトが房になって生っている。トマトの房は、上の方からだんだん赤くなるのを始めて知った。訪問したのは、6月初旬。「だいぶ数が減っているんです」とのこと。

9月頃に苗を植えて、50日くらいで最初の収穫となり、6月末までで終了する。トマトは、実が生って収穫した後、さらに蔓が伸びてまた実が付き、それが延々と続く。だいたい、一つの苗から25~30回収穫できる。写真のように、収穫しやすい高さに花芽が来るように、蔓を束ねて調整するのが作業としては一番大変とのこと。収穫は、週2回、一度に30~60キロ収穫する。最盛期には、ボランティアの方が手伝いに来てくれるそうだ。

 

味の濃さで人気

ブランド名は「東京トマト」。ゆっくり完熟させたトマトは、糖度8以上で甘くて味が濃いと人気だ。2つの品種を栽培している。一つは、果皮が薄くて食べやすい「フルティカ」、もう一つは、甘さと酸味のバランスが良い「シンディ・スィート」。

 

現在の販売先は、農協の直売所2ケ所、東伏見のふれあいプラザの直売所、東久留米のイトーヨーカ堂、それと自宅玄関脇の自動販売機。自販機では、品種に限らず、数によって200円の袋と300円の袋がある。

このほか、「東京トマト」のHPから、チャック付きスタンドパックに入ったトマト(6袋で1800円、12袋3600円)を宅急便通販している(トマトがある時期のみ)。

 

温度・湿度などを自動管理

松本さんの栽培方法は、隔離床式養液栽培。隔離式というのは、地面から栽培ポットが浮いており、根が張るのが制限されるため、養分を一生懸命吸収しようとして甘くなるらしい。

一般に植物工場というと水耕栽培でロックウールを使うことが多いが、松本さんは土で栽培している。水耕の方が生産量を多くできるが土耕の方が味が濃くなるといわれている。灌水チューブから、水と養分(肥料)が適時補給されている。

作業所でお話を聞いている折に日差しが強くなってきたら、麦わら帽子を貸して下さった。松本さんのハウスで使われている素材は、全ての波長の光を通すので紫外線も通すからとのことだ。野球場のドームで使われている素材の耐用年数が5年のところ、この素材は15年という優れものらしい。また、0.4ミリ穴のメッシュで覆われており、虫が入らないようになっている。さらに、それでも入ってしまう小さな虫を取る虫とりも吊るされている。

温度・湿度・照度・炭酸ガスの値をセンサー管理しており、温度が上がると自動的にカーテンが開き外気を入れる。反対に温度が下がると自動的にカーテンが閉まる。24時間トマトに最適な温度や湿度を細かく管理できる。

松本さんと息子さんとでやっているものの、二人とも新規就農者なので、ずっと試行錯誤してきた。「暑いからと屋根に日よけをするとやっぱり甘さが落ちるみたいだ」と先日発見した話をしてくれた。どんな仕事も5年くらい経たないと一人前にはなれないのだからと、ゆっくり構えている。

 

大学の非常勤講師を楽しむ

実は、松本さん、昔の会社の先輩に頼まれ、岩槻にある大学でバイオケミストリーの講座を持っている。今1年目なので、教材を作りながら講義しているので大変とのこと。この分野は、会社時代に手掛けていたことだが、技術も進歩しているし、再勉強しなければならない。でも、生徒たちは、皆やる気があって熱心なので張り合いがあるし、若い人たちと触れ合えるのは楽しいそうだ。

 

将来的にはもう少し拡張も

現在の売上高は、1年で200万円という。前述の立派なハウスは、償却費だけで年間200万円というから、これではとても食べていけない。今のハウスは、300ヘーベ、これが4~5棟ないと農業だけでは食べていけない。

松本さんは、だいぶ栽培にも慣れてきたので、畑はあるものの農業を辞めたい農家で、希望があれば、もう少し簡易なハウスを建て、作り方を指導してもよいかなと考えている。実際の畑ではなく、ハウス栽培なので、農業を知らない人にでも、管理を指導することはできる。都市型農業の良いところは、消費地なので、作れば売れるところだという。

都市型農業は、都市住民への新鮮や野菜の提供や災害時の避難場所としてその重要性が認識されているものの、後継者が居ないとなると、宅地並みの相続税を支払わなければならない。そうなると、農地を売却せざるを得ない。IT化された松本さんのような都市農業で若い人が戻ってくれることを期待したい。

駄菓子屋ヤギサワベース 店主 中村晋也さん

 

開業1年

中村晋也さんが駄菓子屋「ヤギサワベース」を柳沢商店街に開店したのは、2016年の4月24日。そろそろ1年が経つところだ。平日は、子どもで一杯になるという。

実は、中村さんの本業は、デザイナー。先輩と2人で会社を立ち上げており、現在は、デザインの仕事が忙しいと店を開けられない。子ども達からは、いつも閉まっていると文句を言われるという。そこで、この4月からは、奥様が仕事を辞め、駄菓子屋に本格的にかかわることになっている。奥様は、ジャズ・シンガーでもある。

 

アスタセンターコートで2月24日初のスーパーフライデーに音楽イベントがあり、奥様がJAZZを熱唱

 

お店に置いてあるさまざまなフィギュアは、中村さん個人が集めていたもの。でも、お店を開いたら、いろいろな人がフィギュアを持ち寄ってくれて今では、そちらの方が多くなっているらしい。

 

駄菓子屋なので、「ぐるぐるもんじゃ」、「ロールキャンディ」、「棒かる」、「うまい棒」、「カットよっちゃん」、「どらチョコ」、「ココビス」・・・などが並ぶほか、漫画やレゴなどの本も。壁に描かれた少年が怪獣と戦う絵(中村さんがデザインし、知人が描いてくれた)からの吹き出しには、子ども達がメッセージを書いてくれた。

「ラグビーの日本代表になる」、「百人一首のクイーンになる」、「映画監督になってすごい映画を撮る」、「金持ちになって世界一大きな家にすむ」、「テニス選手」、「水泳選手」、「スターウォーズ博士になりたい」、「幼稚園の先生になりたい」などなど。「日本一の駄菓子屋にしたい」という中村さんのメッセージも書かれている。

 

地域に助けられた

なんで駄菓子屋を始められたのだろう。中村さんによると、これまで生きてくるなかで、地域に助けられたという思いがあり、もっと地域と関わりたくなったのだという。

 

というのは、お子さんが小さい頃、近くに頼れる親戚もなく、途方に暮れていたおり、ある保育園の当時の園長先生が手を差し伸べてくれ、ほんとうに助かったという。また、子どもが中学生になった折、「おやじの会」に入って知り合いが出来たり、地域の神輿を一緒に担いでそのあと飲み会をしたりするのがとても楽しい。酔っても電車に乗って帰らずに済むのは、なによりだ。そんなこんなで、地域にもっと根付きたいと思うようになったのだという。

たとえば、デザインの仕事でも、顔の見えないビジネスライクな仕事よりも、地域のお店の人と話し合いながら、ロゴを考えたり、チラシをつくったりといった顔の見える関係性のなかで仕事が出来たらよいなぁと思う。そして、なんとなく、仕事をしながら、駄菓子屋もやったら楽しいのではないかと思えてきた。

 

中村さんが作成したイラスト(市民会館公会堂で開催された音楽劇『不思議の国deアリス』のポスター)

丁度、柳沢商店街に空き店舗があり、借りて駄菓子屋をはじめた。駄菓子の販売では利幅は少なく、今は光熱費等持ち出しの状況とのこと。いろいろなイベントをやって大人から参加費を頂戴している。知り合いの落語家さんにお願いして落語の会を開いたり、3Dプリンター教室などなど、さまざまなイベントを開催し、すでに老若男女が集まる場所になりつつある。

中村さんがデザインした西東京市の一店逸品物語          瀧川鯉んさんの落語教室

将来的には、商店街の他のお店とも連携し、「まちライブラリー」もつくっていきたいと夢を膨らませている。本を寄贈した人の想いや、読んだ人の感想を書けるようにし、返却は、どのお店に返してもよい。本を通して、いろいろな人やお店がつながる仕組みだ。

 

新しい風

最近、柳沢駅をはさんで商店街の反対側(外れ)に「ヤギサワバル」が開店した。息子さんのサッカークラブのコーチをしている大谷剛志さんが中村さんの駄菓子屋を見て、お仲間が茨城県鹿嶋市で作っている地ビールを売りたいと始めたお店だ。さっそく、バルのロゴを中村さんが作成した。

すこしお眠の中村さん@ヤギサワバル       奥様とトマト農家ファーム柳沢の松本さん@ヤギサワバル

中村さんは、現在42歳。風貌からは、もっと若く見える。赤字覚悟の駄菓子屋は、地域に子ども達の居場所をつくり、大人も郷愁を感じて、興味津々の面持ちでやってくる。中村さんは、人に何かをお願いしたり、人と人を結びつけたりするのがとても上手だ。自然体でさらりとやってのける。ヤギサワベースがまさに、base(土台、本拠地)になって、新しい風が吹きそうだ。        (2017.3.17)

ヤギサワバル 店長 大谷剛志さん

TREE HOUSE

「駄菓子屋ヤギサワベース」の中村さんのご紹介で、柳沢駅を挟んで駄菓子屋とは反対側の位置にある「ヤギサワバル」に遊びに行ってきました。

 

もとラーメン屋さんの店だったのを仲間が改装してくれたとのこと(もともとこの店の2階を借りており、今も住んでいる)。天井を外して吹き抜けとし、切り出した木をそのまま貼り付けるなどして、「ヤギサワバル」の頭に書かれているTREE HOUSEのようになっている。

ここでは、大谷さんが係っている茨城県鹿嶋市で作っている無肥料無農薬・自然栽培の野菜や地ビールにありつける。ビールは、本当に「生」なので、発酵を続けているため、注ぐのに泡の管理が難しいらしい。口当たりがとても良いが、お腹のなかでも発酵しているのか酔いやすい気がする。

今どきのキャリア

大谷さんは、現在36歳、彼のキャリアは、今風だ。

 

早稲田高等学院で中学からサッカーを始め、高校でもサッカー部だった。早稲田大学に進むも、さすがに大学のサッカー部は、レベルが高く、同好会に所属した。

 

大学2年生の折、偶然なことから西東京市の子ども達にサッカーを教えることになった(保谷本町サッカークラブ)。サッカー教室は、幼稚園年長から6年生まで、火木土の放課後16時から18時(土曜日は13時から)、本町小学校や東伏見小学校の校庭を借りて練習している。現在、50名ほどの子ども達が通っている。最初は、アルバイトとしてのサッカーコーチだったが、次第に教室の運営そのものも任されるようになった。 

 サッカー教室の夏合宿2015年 鹿嶋にて

サッカーコーチにすっかりはまってしまった大谷さんは、大学卒業後も企業には就職せず、「特定非営利法人ワセダクラブ」で働き始めた。ワセダクラブは、早稲田大学が持つさまざまなスポーツ施設などを優れたコーチや指導者ともども地域に開放し、青少年の健全育成、市民の健康増進、地域コミュニティの活性化をめざしている。

ワセダクラブに約10年在籍したのち、「NPO法人モンキーマジック」に転職する。モンキーマジックは、フリークライミングを通して、視覚障害者をはじめとする人々の可能性を大きく広げることを目的とし、活動している団体で、「見えない壁だって、越えられる。」がコンセプトだ。

 

代表の小林幸一郎さんは、16歳からクライミングをはじめたが、28歳の時に難病にかかり失明してしまった。しかし、障害があってもクライミングをすることはできる。小林さんは、視覚障害者が壁を登るというと驚かれるが、クライミングは、人と競争するのではなく、自分のペースで取り組むことができ、自分の目標に向かうものなので、むしろ障害者が自信を得たり、自らの可能性を広げたりすることができると考えている。大谷さんは、小林さんのこうした生き方に強く心を動かされ、転職したという。

その後、友人に誘われて月2回ほど茨城県鹿嶋に援農に通っていたが、「鹿嶋パラダイス」代表の唐澤秀さんと出会い、スタッフとして働くようになる。唐澤さんは、浜松市の出身で、大学を出て農業生産法人勤務の後、『奇跡のリンゴ』で知られる木村秋則さんの農法に感銘し、田んぼ1.5、畑5.5町歩を全て自然栽培で育てるという手間暇かけた農業を実践している。お米を委託して日本酒も造っており、また、醸造免許を取得して「PARADISE BEER FACTORY」を立ち上げ、4種類の地ビールを造っている。

 

どうやら大谷さんは、熱い人に出会うと、そちらに吸い寄せられる傾向があるようだ。今でも、サッカーコーチは続けている。ヤギサワベースの中村さんの息子さんもサッカー教室に通っており、駄菓子屋を作ったことを知って、自分も鹿嶋と柳沢を単に往復するのではなく、ここで商品を販売してみようかと思うようになり、バルを開店した。今は、鹿嶋と柳沢の暮らしが半々といったところだ。

 

こすもす公園

藤井夫妻とあゆちゃん

 

モンキーマジックで働いていた2011年、東日本大震災が起きた。大谷さんは、すぐに何かしなければと思い立ったものの、何をどうしたらよいか分からない。まだ、普通の車両は通行が認められていない頃だったが、気持ちが焦り、自ら自動車を運転してなんとか石巻にたどり着き、瓦礫撤去や物資支援等のボランティアをした。でも、もっと自分らしい支援をしたいと思っていた。

 

そんなある時、岩手県釜石市の「こすもす公園」のことを聞き、さっそく出かけた。震災の後、公園や校庭が仮設住宅の場になり、子ども達が外で自由に遊ぶことができず、なかには、夜泣きをしたり、夜奇声を上げたりする子がいる。これまで3000へーべの田んぼにコスモスを植えていた藤井了・サヱ子ご夫妻は、ここを開放して、子ども達が思い切り遊べる公園にしようと思い立ったという。大谷さんは、ここにクライミング・ウォールを建てられないかと思ったのだ。

こすもす公園のシンボル「ピノキオのすべり台」

藤井ご夫妻は、皆からお父さん、お母さんと呼ばれ親しまれている。サヱ子さんは、それまでも、産直販売や創作農家レストランなどをやっていた。地震で壊れた保育園の厨房を直しに来ていた外国人たちが、このレストランに食事を求めてきた。東北の復興のために来てくれた人からお金は取れないとご馳走したところ、公園を作るなら、僕たちに任せてよと言ってくれた。

 

彼らは、パーマカルチャーを推進している人たちで、木を切ってきて滑り台を作ったり、コンポストトイレを作ったりと、どんどん公園を作り始めた。ピザ窯も作ってくれた。「パーマカルチャー」とは、人間にとっての恒久的持続可能な環境を作り出すためのデザイン体系のことで、彼らは、千葉県南房総市で「パーマカルチャー安房」を主宰している本間・フィル・キャッシュマンさんたちだった。

フィルさんたちが公園を作る様子を映した動画を見せて頂いたが、彼らは、作業をするまえに、まずビールを飲み、スキップして公園を巡り、それから作業に取り掛かる。しかめ面をして仕事に励むのではなく、子ども達が遊ぶかのように、楽しみながら作業する姿はとても印象的だ。公園のシンボルになっている「ピノキオのすべり台」も、そんな遊び心から生まれたのだろう。ドラえもんに出てくるような土管を土に埋め込んだ岡をつくり、幼稚園児が土管をくぐってはしゃぎ回っている。

 

子ども達が、隣の工場の灰色の壁を見て、震災を思い出すというので、工場の了解を得て、大分県出身で現在は、タイで創作活動をしている画家の阿部恭子さんがここに壁画を描いてくれた(注1)

(注1)阿部さんが福岡を中心に働く女性を応援する月刊情報誌『アヴァンティ』の表紙を描いていた関係もあり、『アヴァンティ』の創刊20周年記念事業「希望の壁画プロジェクト」として取り組んだ。

大谷さんは、この公園にクライミング・ウォールを建てたいと申し出た。

2013年春に、宮沢賢治の童話にちなんだ音符の絵「セロ弾きのウォール」を、2014年春に海をテーマにした「海のウォール」を建てた。前者は、小学館のアウトドア雑誌『B-PAL』のチャリティー企画から10万円を得て制作した。後者は、大谷さんが仲間達と一緒に、屋台で沖縄の貝殻を使ったキャンドルつくりのワークショップを開いたり、それを販売したりして15万円くらいを捻出して制作した。

 3つのウォールと大谷さん↑         ↓銀河のウォール

3枚目は、宮沢賢治が書いた『銀河鉄道の夜』のモデルとなった鉄道が公園のすぐ横を走っていることや、コスモスが宇宙という意味でもあることから、銀河鉄道に乗っていってしまった2万の魂への想いを込め、「銀河のウォール」とし、クラウド・ファンディングなどで40万円の資金を得て完成させた。

バルの3月イベント「震災」

大谷さんの話なのに、こすもす公園の話を長々しく話したのは、バルの3月イベントのテーマが「震災」で、ちょうど3月11日に、藤井夫妻が柳沢まで来てくれたからだ。こすもす公園は、年間4万人くらいが訪れるという。なかには、帰るのを嫌がる子もでるほどとのこと。

 

 

鹿嶋の地ビールのおつまみに、鹿島パラダイスの新鮮な野菜サラダも頂戴したのだが、釜石の特産品である「甲子柿(かっしかき)」も頂戴した。一見トマトかと見まがうが、渋柿を蒸してつくるとのことで、とても甘い。知る人ぞ知る名産品だ。

お父さん、お母さんからこすもす公園のお話を聞いた後、一緒に来てくれたあゆちゃんも夢を語ってくれた。彼女は、9年くらい埼玉で保育士をしていたが、大谷さんの海のウォール作りに参加し、そのまま居残ってしまった。将来は、海外にある「森の保育園」(注2)のような保育園を作るのが夢で、春から少しずつでも準備に取り掛かりたいとのこと。とても頼もしい。

(注2)海外の森の保育園については、以下に詳しい。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0805/27/news016.html

http://d.hatena.ne.jp/samakita/20110616/1308186198

 

バルに居たのは、ほんの数時間なのだけど、大谷さんのお陰で、いろいろな人生や仕事や人に出会うことができました。  (2017.3.14)

ひのたま3Dプリンター教室 柴内能彦(よしひこ)さん

日野の方でした!

西東京ビジネス交流会でお目にかかった「ひのたま3Dプリンター教室」の柴内さんが、ヤギサワベースで3Dプリンター教室を行うというので、遊びに行ってきました。

 

西東京ビジネス交流会でお目にかかり、柳沢で教室を開催されるというので、てっきり西東京市の方かと思いました。原稿を作成するにあたって、頂戴した名刺を良く見たところ、なんと日野市の方でした。

 

でも、このページは、「まちで出会った魅力的な人」を取り上げることになっており、確かに西東京で出会ったのでから、良いことにしましょう!

ヤギサワベースは、駄菓子屋さん。15分ほど遅刻したので、教室は、もう始まっており、小学生の男の子が3人居る中、おそるおそる「一緒にいれてね」と参加させてもらいました。

3Dプリンター

前から、3Dプリンターでものが作られるところを見たかったのです。机の上には、既に作成されたものが色々ころがっており、今、「ドラクエ」の「スライム」が作られつつありました。

 

3Dプリンターでつくられたピカチューやスライム

 

 

スライムが作られたところ、左のリールに巻かれた黒いフィラメントを溶かして作る。
最も知りたかったのは、3Dのデータを作るには、難しいコンピュータ言語とか、数式とかを知らないとダメなのか、それとも、私たちがワードで文章や図形を描くように、感覚的に操作すれば簡単なものなら出来るのかどうかということでした。どうやら、素人レベルでよいなら、もう、後者のようなソフトウェアがあり、しかも、無料でダウンロードできるようです。ネットなどから取り込んだ二次元の絵をソフトウェアで三次元化することが可能です。

 

二次元のイラストから三次元のデータにしたところ

3Dプリンターの方式には、光造形法(紫外線を照射することで硬化する液体樹脂を用いた造形法)、熱溶解積層法(FDM法:熱可塑性樹脂を高温で溶かし積層させることで立体形状を作成する造形法)など、いろいろな方式があるようですが、今回見せて頂いたのは、この熱溶解積層法だと思います。
写真のように、リールに巻かれた樹脂を熱して溶かしながら、下から形を作っていきます。樹脂は、ネットでみると安い価格帯なら、2000円~4000円くらいのようです。3Dプリンターの機械も、安いものでは、3万円台からあるようです。

創造力ゆたかな日本へ

柴内さんは、46歳。普段は、自動車部品メーカーに勤務するエンジニア。3Dプリンター教室は、土日に行っているそうです。忙しい仕事の合間にこの教室を開催するのは、「新しいものにノーと言わず、前向きに評価する人が増えて欲しい」という強い思いがあるからです。

 

たとえば、この3Dプリンター、実は、日本人が最初に発明したものとのこと。1980年、小玉秀男氏が名古屋市工業研究所時代に、光造形法による3Dプリンターを開発。しかし、学会で発表したり、雑誌に投稿するも、周囲からの評価が低く、自信を無くしてしまったそうです。その3年後、アメリカのチャック・ハル氏が3Dデータの保存方式を発明し、86年に3Dシステムズを起業しました。今では、世界の市場規模のほとんどをアメリカのストラタシス社と3Dシステムズが二分しているといいます。

 

世界各国が3Dプリンタープロジェクトを強化するなか、日本でも政府が強化する動きを見せています。しかし思い返せば、小玉さんの発明に対し、もっと周囲の人が前向きな評価をしていたら、日本が世界の3Dプリンター市場を席巻していたかもしれないのです。

 

柴内さんは、教室を通して、子ども達に新しいことへの挑戦を評価するような人になってもらいたいと、単に、プリンターで「ドラえもん」や「スライム」を作るだけでなく、こうした3Dプリンターの歴史についても話をしています。

 

残念ながら、今日の受講生たちは、低学年過ぎたのかもしれません。「わぁ、凄い!」とか、「これ欲しいなぁ」とかの反応はありませんでした。3Dプリンターは、きれいに仕上げるものから荒いものまで精度を決めることができます。荒いもので40分ほどかかるため、子ども達は、飽きてしまうようでした。

 

でも、今日なんとなく聞いたり、見たりしたことが頭のどこかに残っていて、何かに挑戦し、くじけそうになった時に思い出してくれるかもしれません。(2017.3.11)

 

田無なおきち 佐藤うららさん

不思議な魅力を持つうららさん

西東京市で地域活動をしている人で「うららさん」を知らない人は、「もぐり」と言われるだろう。うららさんは、「まちおこし」なんて唱えないし、肩ひじを張らないがしなやかに、熱く、西東京を盛り立てている。この熱に惹かれて、いろいろな才能を持つ人や手助けをする人が引き寄せられ、それがさらにうららさんの活動を魅力的なものにしている。

【写真1】田無なおきちの店内とうららさん(2015年夏に法政大学院生と訪問)

もともとは杉並で生まれたが、多くを西東京で過ごしており、息子さんの手が離れてからは、ごく自然な流れでお店を始め、地域を盛り立てる活動をはじめたという。そうそう、「なおきち」は、祖父のお名前とか。現在でも昭和の香りのするフラワー通りで昔お店をやっており、そこがまちの居場所になっていて、子供時代をそこで過ごした影響も大きいとのこと。

 「田無なおきち」は、昼からやっている食事処で、夜はお酒も飲める。お食事も、西東京野菜をふんだんに使ったメニューにうららさん自身が焙煎したコーヒーがつくランチなどこだわっている。

単なる食事処ではなく、いろいろな講座やイベントを開催し、壁もギャラリーとして貸し出されている。うららさん自身も絵を描くが、「私は自分で絵を描くより、人を見出す力の方があるみたい」とほほ笑む。講座は、有料だが、お金をちゃんと取ってもお客がつくレベルの講師陣となっており、ちょっとやそっとでは、ここで講座を開かせてはもらえないらしい。

 

やおよろずおさんぽ市

田無なおきちでの活動のエネルギーが店内に留まらず外に飛び出したのが田無神社で開催される「やおよろずのさんぽ市」(注1)。田無神社といえば、西東京の氏神さまのような存在だ。その境内で、いつも講座を開催している人たちや主旨に賛同したお店などが出店する。投げ銭ライブ(タナシインドラフェス!)(注2)も行われる。

 

前の宮司さんが、「あなたが楽しいと思うことをおやりなさい。あなたがイメージしていることを楽しく形にしていけば、心豊かな人たちが力になってくれますよ」と開催を支援してくれたという。2012年からもう6年も続いているのだから凄い。

 

私は、音楽に疎いのだが、ここに出演したインディーズたち(奇妙礼太郎、インストゥルメンタル・ジャズバンド・カルメラなど)は、その後メジャーになっているという。

 

(注1)これまでは、5月と10月に田無神社で開催されていたが、今年からは、秋は、後述す

   る「にわとくら」で行われる。
(注2)田無なおきちインディーズドラゴン祭りの略。田無神社に祀られている五「龍」神を

   モチーフに、2012年の「辰」年にスタートした。

 

にわとくらプロジェクト

さらに、最近では、西東京市新町にある民有地「和のいえ櫻井」の庭と蔵を使ったプロジェクトも始まった。「和のいえ櫻井」は、住み継がれるご親族がいないなか、150年経っている屋敷林と古民家に惹かれた建築設計士の山田哲夫さんがここをデイサービスとして活用してきた。トイレや風呂など最低限の改装をしたものの、なつかしい古民家のぬくもりをそのまま残している。山田さんから、ここを市民の力でもっと盛り上げることはできないだろうかと相談があった。

 

うららさんも、この屋敷の空間に魅力を感じ、ちょうどコーヒー豆の焙煎をする場所を探していたこともあり、庭と蔵を借りることにした。蔵の掃除や庭の手入れも手伝ってくれる人を集めて行い、2015年11月にお披露目の「くいしんぼのさんぽ市」を開催した。その後も毎月、さまざまなイベントや地元野菜の販売、キッチンカーによる弁当販売等々の軒先小商いが行われている。

【写真2】くいしんぼのさんぽ市でお友達と佐藤うららさん

【写真3】軒下小商いの様子

 

現在のうららさんの悩みは、この土地の行方だ。放っておくと、来年には、更地にされる話が持ち上がってきた。せっかくの現在の風情が無くなってしまうのはもったいない。すでに、にわとくらプロジェクトによって、ここが市民の居場所になりはじめている。うららさんの「魔法」で良い形で残せるような奇跡が起きることを期待したい(注3)

 

(注3) 西東京市は、2013年に、下保谷にある高橋家の屋敷林(約1ヘクタール)を「特別緑

   地保全地区」に指定した。購入総額は、20数億円とみられ、国、都、市が3分の1ずつ

   負担するものの、毎年分割で購入している状況でこれ以上の購入は難しそうだ。

    国の制度には、このほかに「市民緑地制度」というのもあって、これは所有者と地方

   公共団体又は緑地管理機構が契約を締結し、緑地や緑化施設を公開する制度。世田谷区

   などでは、一般社団法人世田谷トラストまちづくりが所有者と契約し、維持管理を行

   い、市民に公開している。この制度を活用すると、所有者にはみどりの維持管理や固定

   資産税・都市計画税・相続税について優遇措置が受けられるメリットがある。西東京市

   でこのような制度を活用することはできないのだろうか。 (2016年8月)

ひばりが丘児童センター センター長佐藤文俊さん

佐藤さんは、1966年生まれの49歳。NPO法人子どもアミーゴ西東京の副代表理事。団体が西東京市より運営を受託しているひばりが丘児童センターのセンター長でもある。

西東京市の市民活動団体のなかで、若い男性が活躍していることは珍しく、以前から、どんな経緯でなさっているのかと一度お話を伺いたいと思っていた。


子どもアミーゴ西東京に関わった経緯

西東京市には、小学校区に一つくらい学童クラブがあり、学童クラブ連絡協議会が行政と施設改善等について交渉する窓口になっている。学童OBの父兄を母体として、2006年に出来たのが「子どもアミーゴ西東京」で、西東京市で2007年から始まった学童クラブの民間委託の受け皿となった。


佐藤さんも現在高3の女子の父親であり、谷戸小、みどり学童、田無二中に通っていたので、連協をボランティアでやっていた。子どもアミーゴの受託先が増え、職員が増えて、労務管理とかマネジメントをやる人が求められていた。佐藤さんは、サラリーマンを経て自営業(工場経営)をやっていたので、マネジメントならどこでも同じだろうと、こちらに関わることにしたという。2011年にひばりが丘児童館が立て替えられ、これも子どもアミーゴが受託することになりセンター長に就任した。


児童館の役割が広がっている

児童館は、昭和22年に児童福祉法が出来、そこに規定されたものの、細かいガイドラインなどはなかった。しかし、時代に応じて、幅広い役割が求められるようになってきている。


たとえば、法律上、児童とは0歳~18歳未満を指すものの、これまでは主に小学生を対象にしていた。それを中高生まで広げて居場所づくりをすることが求められ、ひばりが丘児童センターでは、18時までが小学生、18時~21時までを中高生の時間としている。また、未就学児童とその親が孤立しないよう、子育て家庭への支援にも力を入れている。


最も重視するようになったのは、いわゆる虐待やネグレクトの早期発見と対応だ。子ども達と年代の近い職員たちが日常的に親しくなり、一緒に遊ぶなかでの何気ない会話のなかから、問題を発見し、対応を図ることもある。


佐藤さんは、0歳から高校3年生まで児童館で育ち、卒業したら、アルバイトかボランティアで児童館に関わり、結婚して子供が出来たら、また児童館に預けるというような循環が出来ると良いと願っている。地域の大人たちも巻き込んで、皆が子どもたちを見守れるようにしていきたいという。


カッコイイ兄貴

佐藤さんの趣味はベースギターとクロスバイク。オリジナルロックを中心とした地元バンド、「ザ・ストライプス」と、職場の若手職員と結成したコピーバンド「めくらやなぎと羊雲」で、時々ライブもやっているらしい。児童センターに来る子たちにとっては、カッコイイ兄貴ともいえるかも(^o^)。(2015.7)









(赤シャツが佐藤さん)

NPO法人移動サポートひらけごま理事長 紺野美子さん

紺野さんは、もともとは、「生活クラブ生協」の個別配送を行う調布配送センターでドライバーとして働いていた。

しかし、いつまでもやれる仕事ではないなぁと漠然と考えていたおり、他の配送センターの代表達が移動サポートの事業をはじめたいというので、その支援をすることになった。


初代理事長は、お子さんに障害があり、移動の大変さを体験され、この仕事を思いつかれた。紺野さん自身も親の介護を体験し、福祉を自分ごととして考えるようになっていた。「いつでも、だれでも、行きたい時に、行きたい場所にいける仕組み」=「移動の権利を守る」ことを通して、地域の仕事を作っていきたいと強く思うようになった。


「移動サポートひらけごま」は、1998年に任意団体でスタート、2000年にNPO法人となった。大きく2つの柱がある。1つは、独自に福祉車両等を3台持ち、有償の移送サービスを提供(会員制)。もう1つは、西東京市の受託事業で、ハンディキャブ「けやき号」の運行(無料)。


「ひらけごま」の特徴は、会員さんの要望をあらかじめ知っておき、その人にあったサービスの提案をしていることだ。「けやき号」・「ひらけごま」・介護タクシー等、料金とサービスのバランスを勘案して移送の提案をする相談事業もしている。


昨年9月から、月一回「お出かけカフェ」をはじめた。「ひらけごま」は、「福祉有償運送」なので、元気だけれど買物弱者という方をサポートできない。「お出かけカフェ」は、元気な人も、介助を必要とする人も対象にしている。このため、移送代金は、取れない。カフェの参加費として300円を頂き、助成金等で賄っている。


芝久保の「しゃくなげ」(注)に集まって頂き、一人ではなかなか行けない、少し遠くのお店に、皆で一緒に買い物に出かける。重い荷物がある場合には、自宅まで運ぶ手伝いもする。買い物の後には、「しゃくなげ」で一休み。移動中の車の中も、いわばサロン。おしゃべりをしたり、助け合ったり。


紺野さんいわく、「移動の権利を守る」としてスタートしたのだが、この頃、移動は、手段でしかないとようやく分かりかけてきた。買物に行きたい、おしゃべりしたい、誰かと係りたい・・・等々、利用者が何を望んでいるのかと考えたら、「お出かけカフェ」に辿りついた。将来的には、子育て中のお母さんなどにも参加してもらいたいし、集合場所も増やしていきたい・・と夢が膨らむ。


移動サービスをコアにしながら、住んでいて良かったと思える地域にしたいと、視点が広がってこられたようだ。「まさか自分が福祉関係の仕事をするなんて若い頃には、思いもよらなかった」と言われるが、体験等を通してじっくり考えながら仕事を前に進めていく姿勢は、とても素敵だ。(2015.6)

(注)社会福祉協議会が市内各所に空家を利用した居場所づくりをしており、その1つ。

シンガーソングライター 和/NAGOMI 高橋宏和さん

シンガーソングライター・和/NAGOMI(高橋宏和)さんと最初にお目にかかったのは、私が所属しているコーラス・グループがこの2月に、アスタセンターコートでミニ・コンサートを実施した折、「未来の空へ」という歌をご一緒した時だった。


実は、初めて聞いたのだが、とてもきれいで心に残る曲だった(「西東京TV」で聴ける)。こんな素敵な曲が西東京発であるなら、もっと広めたら良いのにともったいなく思った。


西東京市は、平和推進事業として、毎年、市在住か在勤の数人が広島に献花に出かけている。2003年には、青少年を対象にしようと、20歳代、高校生、中学生の13人が広島に行くことになった。高橋さんも参加者の一人だった。毎回、参加後の感想文を一人ひとり市民会館で発表するのだが、それ以外に、皆で歌を作って一緒に歌おうということになった。しかし、ただ作れといっても難しいので、子どもの頃から作詞作曲をしてきた高橋さんが、1番の歌詞とメロディーをカセットテープに吹き込み、宿泊先で皆に聴かせて一緒に2番を作った。これに3番、4番を加えて、曲が出来上がったのだという。


高橋さんは、「未来の空へ」をきっかけに、これを仕事にしたいと思うようになった。ガードマンとして働きながら、2008年には、デビューシングルを発売、いわゆる営業を始めた。ところが、最初は、CDが1枚売れると、とっても嬉しかったのに、だんだん、「今日は10枚しか売れなかった!」と思うようになってしまった。ちょっと待てよ、これではお客さんに失礼ではないか、歌でメッセージを伝えたいという気持ちと生活とがちぐはぐになっている!そこで、音楽から離れて自分を見つめたいと思い、すっぱりと音楽活動をやめ、正社員として勤務しはじめた。


だが、勤務先が合併されて労働環境が厳しくなるとともに、その頃には、仕事にも責任が生じる立場になっており、肉体的にも、精神的にもかなり参ってしまった。ちょうど。東北の大震災もあり、自分は、本当は何をしたかったのだろうと思い悩んだ。実は、衝動的に自分を傷つけ、気が付いたら病院のベッドに居たこともあった。その体験もあり、「生かされた自分がやれるのは、音楽しかないんだ」と使命感のようなものを感じた。そこで、会社を辞め、再び音楽で生きていく道を選び直した。


現在は、フリーでやっている。ギター教室、スタジオミュージシャンのサポート、イベント、楽曲の提供などなど。今は、セルフマネジメントの時代。ネットを活用すれば、自分で発信もCDの販売もできる。先日は、東久留米駅が100周年なのでと地元の商店街から、記念ソングの作成を依頼された。ふだんは、所沢の東口でストリートライブもやっている。音楽で地域活性化に役立ちたいと思っている。


最終目標は、武道館を一杯にするというより、全国の市民会館でコンサートツアーをやりたい。お客さんとの距離が近い活動をしていきたいという。西東京生まれの和/NAGOMIさんをこれからも応援していきたい。(2015.4)

三又酒店店主 山崎 明さん

山崎 明さん(49歳)は、「谷戸」のバス停すぐ傍に店を構える三又酒店の2代目。店の看板に「ハートフル配達」と書かれているだけあって、とても心温かな方だ。


その原点は、どうやら野球にあるらしい。中学、高校と野球に明け暮れた。一緒に真っ黒になって練習しても、レギュラーになれるのはごくわずか。練習相手になってくれた仲間が居てこそのレギュラーだと肝に銘じて試合に出た。商売が出来ているのも、お客さんや支えてくれる人がいるからだと日々感じているとのこと。普通の人だとキザに聞こえる言葉だが、山崎さんが話すと素直に心に入ってくる。地域とともにとの思いから、消防団、商店街、酒販組合などに中心的に係っている。


谷戸商店街は、「ひばり祭」や「谷戸ふるさと祭り」などをやり、勢いがあるように見受けられる。昔から、自治会にも声をかけ、まちの行事として地域の人たちと一緒に楽しもうとやってきた。山崎さんは、こうした祭りでも、二中の子ども達がボランティアスタッフとして関われるよう先生とよく打ち合わせをするなど、細やかな心配りをしている。


量販店の登場で酒店はどこも厳しいなか、三又酒店では、いくつかの特色を打ち出している。ビールは、瓶で飲むのが美味い。しかし重たい。そこで、瓶ビールの配達をウリにしている。もう一つは、味噌の量り売りだ。現在、4種類の味噌(信州仕立て2種、仙台、佐渡)をメーカーから直接仕入れ、少量からでも量り売りしている。訪問した折に少しずつ味わわせてもらった。塩分は同じ12%というが、熟成の度合いや麹の入れ具合でかなり味が異なる。これらを合わせ味噌にするとまた風味が変わり、多様な料理を楽しめるという。最近では、健康の面からも、発酵食品への注目が高まっているそうだ。


三つ目は、お客さんに旬を感じてもらおうと、特に日本酒では、季節に合った地酒を用意し、パソコンで自らチラシを作成してお知らせしている。お客さんも、三又さんのチラシが来ると、「おっ、来たな」という感じで注文してくれるという。


こうした企画を最初にやったのが、小澤酒造(青梅)の「朝詰めの酒」で、2回目の加熱直後の暖かい酒を段ボールで送ってもらう。お客さんが会社から帰ってきて晩酌する折に、まだ温かいようにと、新聞紙3枚に包んで配達する。最初の年には、一升瓶で130本も注文が入り、一日で配達できるか内心ハラハラしたそうだ。でも、お客さまとのコミュニケーションの大切さ、お客さまの有り難さを実感した出来事だった。「それまでは、二代目として、親父が積み上げた仕事をただこなしていただけだったが、これをきっかけに自分なりの仕事の仕方が分かったような気がする」という。


お客さんや出会った人との会話を通して、温かいつながりを築いていく山崎さん。こういう人が地域に居てくれることは、大きな力だ。

                         (2015.4)

江戸履物かん田 代表 神田龍介さん

保谷駅近くの江戸履物かん田さんのお店に入ると、まるで浅草辺りの店に迷い込んだ気がする。三社祭りの提灯がぶら下がり、半纏や千社札が飾られている。


神田さんは、子どもの頃、浅草観音裏と呼ばれる辺りで育った。お父さんが靴の職人さんで、高度成長期には、サラリーマンの3倍稼ぐといわれるほど、靴が売れた時代だったという。親方から独立するにあたって、今後成長する地域だからと保谷に出店。浅草育ちにとって、祭りが一番重要で、祭りを中心に生活のスケジュールが決まるほどなので、こちらに来た当初、祭りがないのが寂しかったという。


浅草観音裏では、昔ながらの店が多く、今でも、濃いコミュニティが残っている。どこの家の子どもが生まれたなどの情報は、皆知っている。神田さんも親戚や幼馴染が浅草にいることもあり、商売の仕入れ先でもあることから、週に2~3日浅草に行くし、今でも祭りの時には、神輿を担ぐ。


そんな神田さんも、若い頃には、こうした濃いコミュニティが嫌で、洋の世界であるホテルに就職。お母さんの体調悪化で、店を継いだのだが、まだ2年にも満たないという。一旦は、嫌ったものの、外国人と接するなかで、和の世界の良さを再認識するようになった。知人に浅草の話をすると羨ましいような目で見られるし、クールジャパン政策もあり、和の世界を前面に打ち出すことにした。親の代には、靴と草履が半々だったが、今では、草履、下駄、手ぬぐい、和装に合う小物などを中心に販売している。


現在、売上の7割くらいは、ネット販売(FBのほかYahoo!、Amazonなどでも)による。ネット販売の主なお客は、このような商品を扱う店が周りにない地方の方とのこと。このほか、顔見知りの踊りの師匠や芸者衆など和服を日常的に着ている人たちから特注の仕事が入る。江戸前の草履は、「坪下がり」といって、草履の先から鼻緒までの距離が長く、踵は外に出てしまう(つっかける感じで履く)。江戸っ子のやせ我慢というか、これが粋とされる。


ネット販売をしてみると、ホテルで経験した財務や英会話ができることがとても役に立っている。そのうえ、幼馴染や親戚が仕入先の浅草界隈におり、商売の面でも恵まれている。私たちからすると神田さんは、和の専門家のようにみえるが、その世界に昔からいる友達からは、まだまだ素人だ、良いものを沢山見るようにと言われるという。だから、歌舞伎や踊りのおさらい会など、折があれば出かけて目を肥やしている。

 

日本の若い人も和に目覚めはじめているし、オリンピックもあるし、これから面白い展開が期待される。   (2015.3)

NPO法人西東京市多文化共生センター理事 久保芳昭さん

久保さんは、大手電機メーカーで長くソフトウエア技術支援とシステム開発などに携わり、海外で英語のプレゼンをする機会が多かった。会社を退職後、地域社会に貢献するため西東京市に住む外国人の支援に携わることにした。


現在、NPO法人西東京市多文化共生センター(代表:佐々木瑞枝武蔵野大学名誉教授)、通称NIMICの理事をしている。NIMICは170名ほどの会員からの会費と行政からの委託費で運営している。


西東京市に住む外国人は、3,261人。中国、韓国、フィリピンなど、約70か国の方々が暮らしている。NIMICは、異なる文化的背景を持つ人々が、宗教や信条、生活習慣の違いを互いに理解し、偏見や差別意識を持つことなく、ともに暮らす「多文化共生社会」の実現を目指してさまざまな活動を行っている。


NIMICの事業は、外国人の相談窓口(月~金の10時~16時)、通訳ボランティア派遣、多言語翻訳、多言語版市報『くらしの情報』発行、日本語ボランティアのフォローアップ講座、子ども日本語教室、留学生ホームビジット、日本語スピーチコンテスト、子供対象の英語で楽しく、日本語ボランティア入門講座(市主催講座への協力)など行政と協働して活動する事業が多い。


外国から来られ、日本語が不自由ななかで暮らすにあたっては、子どもの教育、働くための手続き、家を借りる手続きなどなど、分からないことだらけであろう。NIMICは、これらの相談に乗ったり、時には、学校などにボランティア通訳を派遣したり、さまざまな日常支援の活動を行っている。


子ども日本語教室では、単に日本語を教えるというのではなく、数学や理科などの教科についても教えており、小学生向けに3教室、中学生向けに1教室やっている。また高校受験生への受験支援なども実施している。


久保さんは、70歳とのことだが、とてもお元気だ。NHKのラジオ体操の一級指導士の資格も持ち、文理台公園で毎朝NHKラジオ体操を中心に30分ほどの体操を欠かさない。また、NIMICとは別に、「『日本語』で交流・虹の会」も主宰している。


多文化共生は、今後ますます重要になってくるだろう。行政とのより良い協働が不可欠な分野だ。(2015.3)

(株)タウン通信 代表 谷 隆一さん       

毎週水曜日(第1~第3)、新聞に折り込まれてくる『タウン通信』を心待ちにしている人も多いのではないだろうか。西東京市、東久留米市、小平市東部、新座市の一部を対象に10万部発行されており、地域に密着した情報を得られる。谷さんは、その代表。所沢育ちの40歳だ。


谷さんは、大学を卒業し社会に出て働くなかで、もともと好きだった本などを編集・制作したいとの想いが強まり、出版関係への転職を意図した。縁あって、当時田無で発行されていた地元紙に入社、その後『タウン通信』を立ち上げて6年になる。最近では、WEBにも力を入れている。


それまでは、多くのサラリーマンと同様、都心で働き、家は寝るだけで、地元のことなどまるで頭になかった。しかし地元紙に関わって、草の根で活動している人たちに触れていくなかで、とても新鮮な気持ちになった。都心の企業戦士は、住んでいるところに根をはっていない。地域で社会を築いている人たちの方が「人としての基本」なのではないかと価値観がガラリと反転した。


地元の情報というと、「〇〇の店が美味しい」といったものを思い浮かべる。こうした情報も、地元に愛着を持つ入口としては必要だ。しかし、『タウン通信』は、もっと「本質的なことをきちっと伝えていく」ことを目指している。


たとえば、納税しているのに、その使われ方を知らない人が多い。すぐ近くで起きている虐待問題も、自分のこととして考えず、「その家庭のことでしょ」と切り捨てる。これが端的に表れているのが投票率の低さだ。谷さんは、こうした状況を打破できたらと願っている。多くの人が、暮らしている場所のことにもっと関心を持ち、地域をより良くしたいと行動する、そんな「社会参加する人」になったらいいなと思っている。


このような想いもあって、谷さんは、この3月に『議会は踊る、されど進む-民主主義の崩壊と再生』という本を出す予定だ。東久留米市政が中心だが、小平市での住民投票のことも書いてある。将来的には、西東京エリアに留まらず、「本質的なことをきちっと伝えていく」地元紙として、エリアを広げていきたいとのことだ。


『タウン通信』を核に、さまざまなメディアを使いながら、谷さんが今後どのように活動を展開されていくのか楽しみだ。(2015.2)


NPO法人稲門寺子屋西東京 小嶋 弘さん

小嶋さんは、早大ご出身。ある時、卒業生のOB会(西東京稲門会)で、「飲んだり好きなことをするだけでなく、何か社会に役立つことをやろう」という話になり、社会の宝である子どもの教育支援を無料でやろうということになった。平成21年12月より、西東京市で小学校の高学年生と中学生を対象に無料のを始めた。


この塾では家で勉強する習慣がついていない生徒も多いので「挨拶をすること、約束を守ること、勉強することを習慣づけること」という基本から始めている。勉強は、夢をかなえる手段なので、子ども達には、まず、何がしたいかという将来の夢を語らせるという。


現在、先生が21人、生徒が55人。田無総合福祉センターで火・水・木(17:00~18:30、18:40~20:10)、東伏見ふれあいプラザで土曜日(9:00~10:30、10:30~12:00)に国語、算数・数学、英語を教えている。


先生の7割は早大出身ではなく一般市民の方で、全体の3割くらいはもと教師だった方。教員免許を持っていない方が多いが、むしろ幅広い経験を生かして指導してくれている。女性が約3分の1で先生の平均年齢は65歳くらい。孫と祖父母みたいな関係で、それがかえって良い関係を築いているようだ。


先生1人に生徒2人くらいが基本。その子のレベルも性格も違うので、それぞれに応じてやる必要があるためだ。一人の子どもを教えている間、もう一人の子どもは問題を解いているというような感じでやっている。基本的には、学校の教科書や副教材などを利用するが、先生が問題を工夫して作る場合もある。夏休みなど2ケ月はお休みだが、10ケ月は、その曜日のその時間が固定されてしまうため、先生はとても大変とのこと。


年間の経費は全て会費(正会員6000円、賛助会員3000円)と寄付でまかなっている。先生21人+スタッフとして運営をやってくれる人(労力のボランティア)、および会員や寄付などお金で支援してくれる人など、なんだかんだで90人くらいに支えられているという。


頭が下がる活動だ!           (2015.2)

(株)アメリカンハウス 代表 松崎 博さん

ある時は「英語ドクター」のミスター松崎、またある時は「マジシャン」ミラクル本田(写真)。時には、西東京市の地方史研究家・・・と、つかみどころのない自由人。

奥さまがフィンランド人ということもあり、夏の3ヵ月間はヘルシンキ郊外に住む。もっぱら近くに自生しているブルベリーを摘み、ヨーグルトにたっぷりと載せて幸せを噛みしめるのだとか。


ヒト部部長と同じ団塊の世代。高校2年の秋にアメリカ人宣教師と出会ったのが縁で、英語に夢中になり、成績も大幅アップ。大学に行ったものの学生運動の真っ最中でゆっくり勉強もできず。当時、多くの若者に読まれていた小田実の『何でも見てやろう』の影響も受け、バイトでお金を溜め、横浜からソ連客船等を使い、片道切符でデンマークの国際学校へ。その後、フィンランドに移ったことが今の奥さまとの出会いに。


東京に戻り、1975年に田無でミニ英語教室アメリカンハウス(田無警察署近く)を開設する。当初は生徒が6人で、中学生、大学生、社会人の混成クラスでの出発。それから凡そ40年、今では小学生、中学生、社会人・学生・主婦と個別指導に細分化されている。『頭に英語回路ができる』『旺文社日めくり英会話カレンダー』など著作は68点になる。


以前には、「All English Day」、「English Prison」など、外国人(20人)とハウス生ほか(150人)が英語だけでトークするユニークな集まりを田無市民会館で実施したり、河口湖や苗場で4泊5日の「国際英語キャンプ」を15回も開催したりした。こうしたなかから、留学するハウス生も数多く生まれているという。


大学の講師を勤めておられたこともあるが、数年前に大病を患ったのをきっかけに、「好きなことだけして暮らす」ことに決めたとのこと。前述した豊かな暮らしぶりは、ここから来ているらしい。眺めの良いお住まいに住まわれていることもあり、フェイスブックでは、美しい富士山や丹沢の山々などの写真を投稿して下さる。投稿のアイコンは、フィンランドの代表的な漫画『ムーミン』に出てくる思慮深い「スナフキン」。ブログはこちら。                  (2015.2)

柳盛会柳沢北口商店街 販売促進部長 稲垣俊幸さん

稲垣さんは、今回、この商店街で「まちゼミ」を企画した一人だ。本業は、マイスターメガネの経営者。メガネの会社に勤務した後、独立し、柳沢駅北口にお店を構えて約15年とのこと。

「まちゼミ」とは、各お店で店主が自身の業種について教えてくれるというもの。たとえば、マイスターメガネの場合には「日々の生活を向上させるメガネの度数とは」について約1時間お話してくれる。お店によって実施の日にちや時間、一度に受講できる人数は、まちまち。受講したい場合は、チラシに書いてある電話番号に連絡して予約する。

これまでも、商店街を活性化させようと、「地蔵まつり」など各種イベントをやってきたが、一過性に終わってしまう。持続性のある活性化のためには、お客が店主と親しくなって、店に立ち寄ってくれることではないかと、今回の「まちゼミ」に踏み切った。
企画を実現するのに一番苦労したのは、店主を説得することだったという。チラシ(1万枚)の印刷とポスティングの費用は、補助金でまかなった。場所を借りるわけでもないし、講師を呼ぶわけでもない、コストはかからないのだからと説得した。何をやったら良いか分からないという店主のために、他地域で既にやっているチラシを集め、同じような業種の例を見せて、それぞれに工夫を凝らしてもらった。

 

10月4日まで続く。お店や業種によってまちまちだが、予想以上に受講生が集まっているという。マッサージや肩こりなどの健康ものや網戸と障子の張り替え、包丁研ぎ、こどもと一緒に絵本タイムなども人気だったとのこと。これからも、しばらく継続していきたいとしている。

 

柳沢駅北口は、大型店が無いので不便だという人もいるが、個人のお店が頑張っており、却って面白みがある。百豆、ビスケッタなど、新規出店のお店も増えている。「まちゼミ」で店主の顔が見えるようになると、愛着を持ってくれる人も増えるのではないだろうか。

                         (2015.2)

(株)エクラアニマル代表 豊永ひとみさん

(株)エクラアニマルは、1982年、シンエイ動画で「怪物くん」を手がけていたメンバーが独立して設立しました。

通常のテレビアニメや劇場用アニメの仕事の他に、「子ども達に本当に見せたいアニメを手作りで、心をこめて作りたい」という熱い思いから、自主制作アニメにも取り組んでいます。
志の高い若い方たちが狭い事務所に沢山働いていてびっくり。夜までかかる仕事も多いので、会社は、まるで合宿所のよう。ごはんも一緒に作ってみんなで食べるとのこと。

市民活動も積極的に行っており、西東京市のアースディでは、長い間幹事役となって会社ぐるみで奮闘してくれています。献血の応援をしたり、エコキャップを集めたり、植林のための募金等もしたりしています。

ドク丸くん

キャラ丸くんといつも一緒にいるのがドク丸くん。キャラ丸くんがちょっとおっちょこちょいだけど、心優しいキャラなのに対し、ドク丸君は、照れ屋でいたずらっこ。色が黒いし、目つきもちょっときつく見えるけど、悪い子ではないんだよ。恥ずかしがっているだけ。

ドク丸くんも空を飛べるよ。さらに、他の物にのりうつれるし、何でも通り抜けられるんだって!ゴーヤチャンプルーが大好き。

✿これから、田無スマイルCafeのどこかに、ドク丸くんやキャラ丸くんが潜んでいたり、西東京の良いところを紹介してくれたりするよ。楽しみにしていてね✿

キャラ丸くん

キャラ丸くんは、北原町にあるちょっと変わったアニメの会社(株)エクラアニマルのキャラクターです。2004年8月、西武鉄道夏休み沿線アニメ祭りに合わせて誕生しました。

 

既存の人気アニメキャラクターは、複数の大手版権所有者の許可が求められ、気楽に使えないことが多い。そこで、ともかく、子ども達に楽しんでもらいたいと制作されました。キャラ丸くんの胸に書かれた©マークは、著作権(版権)に縛られず、子ども達に求められればどこにでも行く、NO©(著作権フリー)を意味したもの。

「鉄腕アトム誕生からこのかた、強く、優しい正義のヒーローは、たくさん生み出されました。でも、そのヒーローに憧れて大人になった人々の作り出した世界は、正義に満ちた優しさにあふれた社会と言えるでしょうか。私たちには、どうしてもそのように思えません。正義のヒーローは、この現実の世界を優しさあふれた楽しいものにするために働く存在と私たちは考えます」と(株)エクラアニマル代表の豊永さん。

 

だから、キャラ丸くんは、西東京市の市民祭りや子どものイベントなど、どこにでも現れます。先日は、総持寺の盆踊りでも、良い子の皆と一緒に踊りました。また率先してゴミを拾ったり、エコキャップを集めたり、自ら正義と思う行動もしています。

キャラ丸くんは、もちろん空を飛べるし、自由に身体の大きさや体温を変えられるという得意技を持っていま~す。好物は、ラーメン。

                         (2014.8)

横山えきおさんの投稿写真より
横山えきおさんの投稿写真より

(有)ニイクラファーム 専務取締役 新倉大次郎さん

これまでの経緯や社会の変化に翻弄される都市農業について淡々と説明してくれる大次郎さん
これまでの経緯や社会の変化に翻弄される都市農業について淡々と説明してくれる大次郎さん

いま、レストランでは、「ニイクラハーブのハーブを使用しています」というのがある種のステイタスを示す言葉になっている。それくらい高いブランド力を得ている農産物も珍しいと言えるだろう。

FAXからの注文に人の手で品質を確かめ、小ロットに包装する
FAXからの注文に人の手で品質を確かめ、小ロットに包装する

全国の高級レストランや高級食材店からひっきりなしに注文のFAXが届く。注文が個別で小ロットなので、人の手で小分け、包装して宅配する。

 

政令指定都市と含む三大都市圏の市街化区域においては、いかなる法人も農地の所有と農業の経営ができないので、あくまで新倉さん個人として農地を所有し、経営するものの、販売部門と農業以外の部門は、(有)ニイクラファームが担っている。

 

1.5haの農地に150~200種類のハーブを生産している。非常に土地集約的だ。お父さん、お母さんと3人で収穫しながら生産状況を把握し、あそこは早く成長しすぎたとか、虫がついているとかをチェック、細かく温度調整や対応をする。

 

新倉家が現在のような高付加価値型農業に変貌していった経緯は、とても面白い。

昭和40年頃、成長しはじめたスーパーは、野菜などを市場で大量に購入すると値段が上がってしまうことから、場外で購入しはじめた。西友のバイヤーで、アメリカの状況を知って時代を先読みし、場外で販売してくれる農家を探している人がいた。彼の呼びかけに応じたのが大次郎さんのお父さんで、仲間と出荷組合を作って対応した。

スーパーと取引するとなると、年間、毎日、一定量の出荷を求められる。それには、予め値段をおよそ決め、年間計画を立ててビニールハウスや暖房などの設備投資をし、連作障害が起きないよう計画的に土づくりをしなければならない。新倉さんたちは、これまでと違うスキルが要求されることに、ともかくがむしゃらに対応していった。

スーパーが成長するに伴い、場外での購入を増やす必要に迫られた。しかし、農協に販売を依存してきた地方の農家には、なかなか受け入れてもらえない。そこで、西友に頼まれ、新倉さんのお父さんは、地方の農家に産地指導に行ったりした。

 

同じ作物を大量に作る地方の農家が場外取引に応じていくにつれ、少量しか作れない東京の農家からの取引は減少する。「敵に塩を送ったことにならないのか」と聞いたところ、その代わりに、市場の新しい動きに対応した作物を作ってくれないかと提案されたという。

西友は、多店舗展開していたので、高級住宅街の店や無印良品でお客から求められる珍しい高級野菜を作ることだった。特定の店舗で売ってみて、反応をみては生産内容を修正していく。いわば、研究開発部門のような役割を担ってきた。

ハウスの中で育つルッコラ
ハウスの中で育つルッコラ

ハーブとの出会いもそんな頃生まれた。お父さんが腰を痛め、重い野菜が難しくなった頃、レストランのシェフが買いにくるような店にハーブを置いた。その後、バブルで日本人が海外旅行し、本場の食べ物に接し、ハーブを求めるようになったことも幸いした。個人経営のレストランが人気になったことも追い風となった。最初にニイクラファームのハーブを使ったシェフの弟子たちも、同じハーブを使うようになっていった。

FAXで注文を受け、小口配送する仕組みも、バイヤーの要求にがむしゃらに対応するなかで出来上がっていたので、レストランからの小口注文にもすぐに対応することができた。

畑を案内してくれながら、表に咲いているルッコラをちぎって食べさせてくれた。「ハウスの中のに比べて味が濃いでしょ。こういうのを食べさせるとシェフが驚く。次にこんなものを作って驚かせてみようと思うのが楽しい」と大次郎さん。

 

「市民の体験のために畑が大事とか、地球温暖化で緑が大事とか、個人レストランがもてはやされるとか・・・こういうのは、時代、時代で変わるもの。我々は、柔軟に対応していくだけ」と都市農業の環境変化について、過去の歴史を踏まえてとても客観的に見ている冷静さが凄いなぁと思いました。 たぶん、お嫁さん募集中です!!(2014.8)

合同会社はっぴーはぐ 代表社員 長山 隆さん(1955年生)


長山さんは、高齢者の生活をもっと豊かにするためには、介護保険制度では限界があると感じ、2014年に小平の施設を閉鎖し、西東京で新しい挑戦を始めようとしています。


長山さん(西東京市在住)は、長く建設・内装関係の仕事に携わってきた。母親の介護を通じて、介護保険制度では、十分フォローできていない部分が気になりはじめ、介護業界に転身した。

最終目標は、「一人ひとりが笑顔で自分らしく生きること!」

そのとっかかりとして、ディサービス「はっぴーはぐ小平大沼」を2013年7月に設立。西武新宿線小平駅から歩いて15分くらいの住宅街にある。

 

実は、長山さんのやりたいことは、このデイサービスに留まらない。高齢者が安心して笑顔で自分らしく老後を過ごせる社会を実現したいと考えている。

 

今後、高齢の単身者および高齢者だけの世帯が急増する。国では、在宅で、地域で見守るという方針を打ち出している。しかし、介護保険制度では、24時間見守ることができず、すき間がたくさんある。

 

本当は、安く「高齢者を見守れる」施設をたくさん作る必要がある。が、介護施設と名乗ると、様々な基準をクリアしなければならず、高額になってしまう。


長山さんは、空家を活用し、生活支援サービスも合わせて提供することによって、この夢を実現したいと模索中だ。現在、東村山のNPO法人はまなすと連携し、具体的な姿を示したいと奮闘している。

 

「自分の持つ建設関係の知識を活用すれば、介護業界の新しい姿を示せるのではないか・・なんだか、呼び込まれたような気がしている」という。

 

長山さんの詳しい取り組みは、以下のファイルをご覧ください。

                           (2014.6)

第8回地域でビジネス(長山さん)済.pdf
PDFファイル 1.3 MB